思考錯誤録

頭でっかちな人間の見た景色

「麒麟がくる」が来た。③油売りの子が「長井規秀」になるまで

③油売りの子が「長井規秀」になるまで

長い間、斎藤道三は一代で油売りから美濃国を乗っ取った下克上と言われていて、司馬遼太郎の「国盗り物語」でもそのように描かれた(読んだことはない)。

しかし、最近の説では、これは親子二代で行われたのではないかということになっていて、美濃で家臣としての地位を築くまでを父、仕上げに斎藤家を乗っ取るのを子、がやったとされている。

まずは父の話。

父は、京都の寺で僧侶をしていたが、ある時知り合いについて美濃に移り還俗、松波庄五郎と名乗った。

庄五郎は油問屋の娘と結婚、油売りとなるが、油を注ぐパフォーマンスなどの実演販売で有名となり、なんと才覚がもったいないからと武士にスカウトされる。

そして、武芸の訓練を積み達人となり、僧侶時代のつてで口利きをしてもらい、小守護代の長井長弘の元に仕え、名前を西村勘九郎とする。

こうして一介の油売りが、美濃国の覇権争いに加わったのだ!

さて、長井長弘勘九郎土岐氏に紹介したところ、頼芸は勘九郎をいたく気に入った。
これで勘九郎は頼芸の側につくこととなる。
ここがひとつ、美濃国の分岐点だったかもしれない。

勘九郎は長井長弘や頼芸を後ろ盾に得ることができ、同じ長井の姓をもらって
長井新左衛門尉(しんざえもんじょう)
と更に改名する。

そして、前回の最後のところに話がつながる。


1519年父の政房が死んだことで頼武が美濃に復帰。追いやられた頼芸と、そこについた長井長弘、さらにその家臣新左衛門尉は、まとめて没落する。

その後、しばらく頼武が治めて美濃国は束の間の安定をみる。

しかし黙っていない頼芸サイド。
(ここらへんは添付の汚い手描き地図も参考に…)

1525年、長井長弘が頼芸を奉じて、頼武や守護代斎藤利茂を襲撃。斎藤氏の稲葉山城や守護の館、福光館を占拠する。

さらに、琵琶湖のほとりで北は朝倉、南は六角に挟まれる浅井亮政が山を越えて美濃へ侵攻、頼武軍と、それを助ける朝倉も巻き込んで関ケ原近くで戦ったりもした。

この戦乱は1527年ごろまでつづき、1530年には頼武が再び朝倉の元に追放される。

これでめでたく頼芸が実権を取り返す。
そして、この戦いの中で新左衛門尉は、頼武を革手(川手)城で襲い頼芸復活に貢献したといわれる。

定かではないがこのあたりで親子代替わりして、後の斎藤道三が父に替わって動いていると思われる。

頼芸の覚えがめでたくなると、邪魔になるのは長井長弘

1530年または1533年に、いちゃもんをつけて長井長弘を殺害。長井新九郎規秀を名乗る。

史料では、1533年に長井規秀の名が初めて現れたそうだ。また、この年には長弘の子、景弘と規秀が連名で史料に現れるが、翌年には規秀単独になるため、この間に景弘もなんらかの形で亡くなっているとされる。

こうして長井家は規秀のものとなった。


斎藤になるまでもうしばらく波乱が起こるので、まだ次回に続きます。