「麒麟がくる」が来た。②美濃国の支配体制(斎藤道三以前)
応仁の乱から、斎藤道三が入り込んでくるまでのあらすじ。かなり入り組んでややこしい話になってます。
前述の通り、守護は土岐氏、守護代は斎藤氏、小守護代(ここだけ訂正)は初め石丸氏→後に長井氏。
応仁の乱(1467年〜)の時点で、守護は土岐成頼、守護代は斎藤利藤、後見人は妙椿。
京都にいる成頼が西軍についたため、美濃にいる斎藤氏も西軍になり、美濃国内で東軍についた国人(地域の支配者)と内乱になるが、斎藤氏がこれを制して勢力を伸ばす。
◯美濃文明の乱
応仁の乱のあと、斎藤妙椿の死後(1480年ごろ)に利藤と利国で後継争い。
土岐成頼と石丸利光が利国側について、利国の勝ち。利藤は近江→京都へと追放される。
その後、利藤が幕府に助けてもらって美濃守護代に復帰するが、実権は利国がもったままになる。
いつのまにか、石丸利光は利藤に接近。
◯船田合戦
1494年、今度は土岐氏で後継争い。成頼は元頼に継がせたいが、嫡男は政房。船田合戦という戦になる。
土岐成頼・元頼、斎藤利藤、石丸利光
vs
土岐政房、斎藤利国
政房、利国の勝利。
土岐元頼は自害、石丸利光も親子で自害、斎藤利藤は隠居ののち1498年に、土岐成頼は1497年にそれぞれなくなる。
この辺で、いつのまにか長井氏が小守護代になっているっぽい。
◯斎藤氏没落
しかし、1497年に近江の六角討伐の帰りに一揆にあい斎藤利国、利親が親子で戦死。利親の子がまだ幼いので利親の弟ふたり(又四郎と彦四郎)が順に後を継ぐが、1512年に土岐政房に追放される。
利親の子、利良は土岐氏の元にいる。
◯もう一回土岐氏の後継争い
1517年、政房の後継をめぐり土岐氏はまたもめる。
一度頼武が勝つが、翌年頼芸が押し戻す。
1519年政房が亡くなると、朝倉の力を借りて頼武が守護になる。
ということは、頼芸と長井長弘失脚。
◯まとめ
この段階で、守護に土岐頼武、守護代は斎藤利良から代わって斎藤利茂、小守護代は長井長弘。
このあと、斎藤道三が絡んでくる。