思考錯誤録

頭でっかちな人間の見た景色

【感想】静かな雨 宮下奈都

「あたしたちは自分の知っているものでしか世界をつくれないの。あたしのいる世界は、あたしが実際に体験したこと、自分で見たり聞いたりさわったりしたこと、考えたり感じたりしたこと、そこに少しばかりの想像力が加わったものでしかないんだから」


主人公はある女性を好きになる。ふとしたきっかけで少しずつふたりの距離が縮まった矢先、その女性は事故に遭う。そして、3ヶ月と3日の眠りから覚めた彼女には、その日の新しい記憶を一晩寝るたびにリセットされてしまうという後遺症が残ったのだった。

彼女の退院後、一緒に暮らすようになった主人公は、ふたりの暮らしが彼女のなかに積み重なっていかないことに苛立ちを覚える。

彼女の世界のなかで、ふたりの暮らしは体験したこととして残らない。だから彼女の世界と自分の世界の重なる部分も広がっていかない。さらに、特別な出来事ならまだ我慢できるのに、と主人公は思うのだ…。


イベントのような非日常を共有することと、日常を共有すること。

優劣をつけるものではないので、どちらだったからどうというものでもないが、その人と自分の世界のどこが重なっていたら幸せなのかが相手によってなんとなく違うような気もする。

そして、優劣をつけるものではないというものの、特別な出来事なら我慢できるのに、という主人公の気持ちもすごくわかるのだ。

誰かの世界と共有する記憶が、ふとした言葉のやりとりや、なんてことない日々の繰り返しであることの幸福感や満足感。なんとなく、自分の世界の真ん中に近いところと相手の世界が重なっているような気持ちになる。


いま、非日常を体験することはおろか日常生活をつつがなく送ることすら難しい世界になってしまっている。そして、物理的な距離が離れてしまったことによって、誰かと時間を共有することがとても難しくなった。

常に心のどこかにある落ち着かないような気持ちは、誰かの世界と自分の世界が重なっているという確かさを実感できないせいなのかもしれない。

家族と、友人と、そして大切に思う誰かと、もしくは小説、音楽、映画などの作り手とだって構わないだろう。文字でも声でも画像でもなんでもいい、世界が重なり合う場所を少しずつ取り戻していくことで、この大変なときを乗り越えられるような気がする。


「静かな雨(文春文庫『静かな雨』収録)」 宮下奈都 2019年


静かな雨 (文春文庫)

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